は、自分の部屋にいた。机に向かい、ウォクスに与えられた魔術論理の本を読んでいた。傍には燐光を放ちながら起動する、小さな機械が置いてある。ウォクスが用意した光照魔導器だった。通常の光照魔導器よりもエアルを集める力を高めた特製のこれは、の周りにあるエアルを先に収集し、エネルギーとして活用することで、彼女の負担を減らそうという考えで作られた。そのお陰か、の体調は以前より格段に良くなっていた。
 だが、それでも完全とは言えなかった。

「お母さんたちが生きてたら、何かわかったかなぁ……」

 呟きの後、は軽く咳き込んだ。こんな時、無意識のうちに胸を押さえてしまうのは、幼い頃からの癖だった。
 ……眠れない。
 振り返って、寝台を見る。愛する弟妹たちは、すやすやと心地良さそうな寝息を立てていた。ちょっとやそっとの物音では起きなさそうだ。
 魔導器の灯りを手に、はそっと席を立った。


◆◆◆


 屋敷の廊下は、洞窟のように真っ暗だった。光照魔導器を右手に提げ、壁に左手を伝わせながら、は廊下を進む。首から下がる母の形見のペンダントが、歩みに合わせて揺れる。
 少し外に出るつもりだった。昔から眠れない時は、外に出て空気を吸い、空を見上げることが彼女の習慣だった。この屋敷では、住民が寝静まった夜であろうと扉に鍵を掛けることは無い。そのため、外に出ることは難しくなかった。
 孤島にたったひとつの屋敷ゆえに忍び込む者もいないし、万一に対する魔導器による警備が――結界も含め――万全なのだ。賢いたちは、屋敷の外には出ても結界の外に出ることはない。
 しかし、そんな屋敷においてもたったひとつ、鍵の掛かった扉があった。
 屋敷の主人、ウォクスの私室である。
 気にならないわけでは無かった。しかし――ウォクスが私室について触れたたった一度の時、彼の溢した言葉が蘇る。

「どうして鍵を掛けているのか、たちは賢いのだから判るよね」

 幼い弟妹でさえ“触れてはいけない場所”と理解した。聡いは更に理解を進めていた。単なる私室ではないことをウォクスの笑顔が言葉にせずとも語っており、笑顔のはずが笑顔には見えず、優しい声が声としては届かずにいた。
 その時、少女はウォクスを怖れた。
 私室にさえ触れなければ、ウォクスはたちにとって“優しい旦那さま”だった。口の端にクリームを付けながらケーキを頬張り、寝ぼけ眼で歩いてドアにぶつかり、穏やかで暖かい、親のように大きな存在だった。
 親。胸の中でその響きを繰り返す。
 が今より幼く、アルトとリィーナがまだ母の胎内にいた時、父は亡くなった。父は勇敢で、物静かで、少し照れ屋だったらしい。それを楽しげに語り、教えてくれた母も、今はいない。
 ウォクスに父の姿を探そうと見つめたこともあった。しかし上手くいかなかった。何故だろう。既に父と過ごした時よりもずっと、旦那さまとは長く暮らしてきたのに。
 お父さん。顔も朧気な父が、不意に恋しくなる。お父さん――。
 無意識のうちにはペンダントを握り締めていた。じんわりと額に滲む汗を、柔らかいネグリジェの袖を引っ張って拭う。
 もう外に出るのは止めよう。そう思い直し、は振り返りかけた。
 ぱたぱたぱた――。
 耳に入ったのは誰かが小走りで駆けていく音。反射的に音を追いかけ、踏みとどまり、前を向く。
 走っているのはスフィナだった。アルトたちを「屋敷を走らないように」と咎めていた彼女の小走りはとても珍しいものに思えた。
 はほんの少しだけ躊躇った。が、すぐに彼女を追い掛けて歩き出した。スフィナが向かっているのは、ウォクスの私室のほう。言い様の無い不安を感じながらも、の歩みは止まらない。
 やはりスフィナが目指しているのはウォクスの私室だった。半開きの扉に、滑り込むように彼女は消えていった。部屋から廊下に差し込む光は、照明にしては薄暗い。
 そっと、扉に近付く。
 禁じられた行為に触れるというのは、どうしてこうも心を逸らせるのだろう。私室に触れないようにと教わったはずのは、すっかり只の少女に返ってしまっていた。
 好奇心のままに、中を覗き込む。
 部屋は散乱としていた。一つの机を覆い尽くさんばかりの古書と紙の束が積み重なり、あぶれたものたちは床に直置きされている。何かの公式と思わしき走り書きがしてある何枚もの紙が、壁紙のように貼り付けられていた。インクや紙とも違う、年期の入った匂いが充満している。

(旦那さまもスフィナさんもお部屋にいない……?)

 は、思い切って部屋の中へと踏み込んだ。
 やはり二人の姿はない。覗いているだけではわからなかった場所に、更に机があった。フラスコやビーカー、小型のランプ、いわゆる実験道具がひしめき合っている。匂いの正体はこれらしかった。
 何とか足の踏み場を探しながら部屋を見渡す。
 いつか私室に入ることを許して貰えたら、まずお掃除をしたいなあ。
 ぼんやりと考えながら、ふと視線を上げた。
 本棚や貼られたメモの間に、不自然な枠があった。しっかり見るとその枠は手前にずれており、取っ手があることから扉だということが判った。半開きのその奥は真っ黒だ。真っ黒の中から、微かな物音がの耳に届く。
 今まで以上に踏み込むのは躊躇われたが、好奇心を止めるまでには及ばなかった。
 ドアの奥には階段が続いていた。薄暗い地下へと続く黒い螺旋。何かの匂いが強い。壁に手を這わせながら、階段を下っていく。これは何の匂いだろう? 嗅いだことがある気がする。それは、あまり気持ちのいいものではなかった気も。
 道なりに進むと声が聞こえてきた。聞いたことのない声だった。

「――て――」

 幼い子供の声だ。
 は不思議に思った。この屋敷にいる子供は、アルトとリィーナと自分だけ。ならば、どれでもないこの声は、誰のものなのか。
 向こうに見える、淡い光を目指しながら進む。
 あそこにスフィナたちがいる気がした。

「――けて」

 近付く声は、何か急いているようだった。
 いや、頼んでいる?
 何を?
 は歩いた。歩き続けた。手の平で伝う壁は、酷く冷たい。
 光と、誰かの声は更に近づいてきた。
 何か音がする。ばちりばちりと小さな雷のような、弾ける音。金属同士を擦るような、耳に辛い音。
 そして。

「たすけてぇええええ!」

 悲鳴。
 は思わず耳を塞いだ。それでも悲鳴は、彼女の指の隙間から鼓膜を突いてきた。絶叫。断末魔。この世界に漂う苦しみを全部注がれたような、耐え難いものに対する拒絶と、恐ろしいものへ恐ろしいと訴える反射と、それから、それから。
 震える手から光照魔導器が抜け落ちていった。転がるそれが立てる音さえ、悲鳴は飲み込んだ。
 はやく、はやくおさまって。もう、さけばないで。
 の祈りは程なくして届いた。ぴたりと止む悲鳴。地下の通路に束の間の静寂が訪れた。

「……いま、の……」

 そっと顔をあげる。は震える手で魔導器を拾うと、何とかまた歩き出した。
 助けて、と聞こえた。
 このまま帰ってはいけない気がした。
 涙を堪えながら、引きつる呼吸を整え、白い顔のまま歩く。嫌な匂いが強くなってきた。思っていたより、果ては近い。
 心のどこかで、は予期していた。この先にあるのは、よくないもの。今まで見たことのないもの。自分には想像もつかない、おそろしいもの――取り返しのつかないもの。
 彼女を迎えた光景は、まさしくそれであった。

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