懐かしいその記憶が夢であることは、切ない胸の痛みですぐに気付いた。
視界に映ったのは、薄暗い灰色の天井。細やかな光照魔導器の明かりが部屋に注いでいる。そうだ、とは思い返す。
私は、また魔物と戦ったんだった。最後の魔物の、足を切り落としたところまでは記憶があるんだけれど。
何時、自分はあの魔物の部屋から出たのだろうか。不思議に思いながら、はゆっくり体を起こした。
「――起きたか」
思わず体が跳ねた。声の方を見ると、明かりに照らし出された人の影があった。
夕焼け色の騎士団服。湖のように青く静かな眼差し。
は瞬きした。
「お兄さん……?」
アレクセイと共にウォクスの研究を確認しに来た騎士、シュヴァーン。何故か彼がいた。
どうして?
はぼんやりシュヴァーンを見つめる。シュヴァーンは彼女の疑問を察したように口を開いた。
「君を此処に運んだ」
「え、あぁ……。ありがとうございます」
「ウォクスに頼まれただけだ」
淡々とした返しに、の心はひっそりと沈んだ。何かを期待していたわけでは無かったが、満身創痍の少女に、感情の無いシュヴァーンの声は堪えた。
自分が泣きそうになっていることに気付いたは、慌てて俯いた。寝台と呼ぶには簡易すぎるそれに転がる自分の体を見て、更に滅入る。いつもより怪我が深く、ぼろ布の服も血と泥で固まっていた。
「私、汚いのに……。触るの嫌でしたよね、お兄さん。ごめんなさい……」
服の上で握った手が痛む。何時もより魔物が多くて、ドジを踏んでしまったからだ。痛みは震えに変わり、の体と心を弱らせる。
そんな彼女の姿に、シュヴァーンは何も思っていない訳ではなかった。
「気にするな。その怪我では、大人でも立てない」
「でも私は、立たなきゃだめなんです……」
「……何故そこまでする?」
「守って、贖わなきゃいけないからです」
は、シュヴァーンが自分の話を聞こうとしてくれていることを知った。それを嬉しく感じている自分に気付いた。そうなると、言葉は止まらなかった。
「私の目を作るために、旦那さまがいっぱい子供を死なせたのを、お兄さんは知ってますよね」
「……ああ」
「旦那さま、私の体を治すって約束してくれたせいで、そんな酷いことしたんです。私のせいだから、贖うんです」
シュヴァーンは拙い少女の考えを否定しようとはしなかった。ありのまま、ただ聞いていただけ。
しかし、その胸中は酷く澱んでいた。
ここまでを追い詰めたものが何か知っているし、知らなかったとはいえ自分も荷担したのだ。
せめて話すことで、彼女の荷が軽くなるならば――。浅はかな願いが、奥底に在った。
「私の体、この魔導器のお陰で苦しくなることなくなって……。だから次は、私が旦那さまとの約束を果たすんです」
「その為にあんな実験を受け入れているのか?」
「私に出来ることは何でもするって決めたんです」
それに――。
少女は笑った。
「もう、私には、そうするしかないから」
私が逃げたら、アルトとリィーナはどうなる?
次は誰が苦しむ?
何人、何十人、どれだけ罪が重なってしまう?
旦那さまは、誰が止めてくれる?
旦那さまは、“成功した”私が頑張れば、きっといつか満足してくれる。私が頑張れば、あとは誰も辛い目に遭わなくて済む。
だから――。
「……お兄さん?」
不意には顔を上げ、シュヴァーンを見た。
端から見れば、何もない彼の表情。しかし聡いには、シュヴァーンが――泣いているように見えた。
「苦しいの……?」
気遣うの声音に、シュヴァーンは淡々と返す。
「苦しいのは、君だろう」
「……お兄さんは違うの? ああ……」
は何か閃いたらしい。彼女は痛みに痺れる右手を、必死に彼へ向けて翳した。
何時の日か、シュヴァーンにそうした時のように。
ふわりと舞い上がるエアルの光。彼から少女へと導かれていく、淡い緑色の輝き。それは僅かな間、ふたりを繋いでいた。
光が収まると、はそっと訊ねた。
「よく、なりました……?」
あの時のままの声音で。
シュヴァーンは酷く狼狽えた。しかしそれを表面に出すわけにはいかなかった。動揺を必死に押さえ込み、無いものとする。それから無言で頷き、平気だと言う意思を示す。するとは、安堵したように微笑んだ。
「お兄さんの体も、私とはちょっと違うけどエアルに弱いって旦那さまが言ってたから。良かったです……」
詳しいことまでは聞かされていないらしい、純粋な少女の厚意は身に沁みた。
は、寝台に手をつきながら立ち上がった。とても歩けるような状態では無いであろうに、覚束ないながらも歩を進めていく。右目の仄かな輝き。あの義眼魔導器が彼女の体を無理に動かしているのだとシュヴァーンは悟る。
そんなシュヴァーンを、は振り返った。
「お兄さん、どうぞ旦那さまたちのところに戻って下さい。私が今からすること、普通の人には良くないから」
「どういうことだ……?」
シュヴァーンが眉を潜めると、何処か寂しげに彼女は話した。
「このお部屋、エアルが充満するんです。そのエアルで、私の体、治るんです。でも、お兄さんには危ないから……」
先の戦いで、が魔物を吸収したことを思い出した。何らかの仕掛けにより、この部屋にはエアルが充満する仕組みらしい。
かつては微量のエアルの吸収さえ苦だったが、今では自らエアルの中に居座ろうとは。
これがウォクスの魔導器。
それに適応した人間。
――生けるリゾマータの公式。
「……判った」
の眼差しを受けて、シュヴァーンは頷いた。
部屋を出ようと扉に手を掛けようとして、シュヴァーンはを振り返った。大したことでは無かったが、気になることがひとつあった。
「ひとつ訊いてもいいか?」
「はい、何ですか? お兄さん」
「それだ。何故“お兄さん”なんだ?」
はきょとんとした。この状況で、どうしてそんなことを訊くのだろう?
対するシュヴァーンは至って真面目で、の返答を待って沈黙している。
そこで、も真面目に答えた。
「お兄さんは、シュヴァーンっていうお名前、好きじゃないのかなって」
「え?」
「だってお兄さん、シュヴァーンさんって呼ぶと……まるで、お兄さんじゃない誰か……別の人の名前を呼んでるみたいに……だから、私……」
俯きがちに答えた彼女には見えなかっただろうが、シュヴァーンは驚きを隠せずに目を見開いていた。
この名前に課したもの。
この名前でと決したもの。
彼が被り続ける虚ろな仮面の存在を、あどけない少女は悟ってしまっていた。
極限状態にある故か、元来のものなのか。どちらにせよ少女らしからぬ洞察眼に、シュヴァーンは閉口した。
勘が良い人間には幾らでも会ったことがある。しかし、その誰よりも彼女のそれは鋭く、純粋で、異質だった。比較にすらならないほどに。
――なんて聡すぎる子だ。
「……そうか」
短く答えて、シュヴァーンは頷いた。
「すまなかったな。……ゆっくり、休んでくれ」
「ありがとう、お兄さん」
傷だらけの顔で微笑む少女の姿が、何故か眩しく思える。
「お話しできて、良かったです――……」
扉は閉ざされた。シュヴァーンは扉に填められた硝子越しに、を見た。小さく手を振り、まだ笑っている。
程無くして部屋には、淡く光るエアルが満たされていった。
シュヴァーンは、そっと目を伏せ、部屋に背を向けた。
そうして彼が幾らか歩を進めたとき、どさりと何かが落ちる音がした。間違いなく、先の部屋から聞こえた。恐らくは、の倒れた音。
反射的にシュヴァーンは道を戻っていた。
閉じられた扉に駆け寄り、硝子から中を窺う。予測は事実に変わった。が石畳に横たわっている。ぴくりともしない。
部屋に入ろうにも施錠された扉はびくともせず、たとえ入れたからといって、シュヴァーンの体では共倒れになり兼ねなかった。彼の心臓に過剰なエアルは禁物なのだ。
どうするか、とシュヴァーンが考えた。――刹那。
の体が、光った。
只の光では無かった。今までに彼女の発した光のどれよりも強い輝きだった。それは彼女の体を包み込み、輪郭すら変えていく。エアルを取り込み、更に輝き、更に、更に。強く増した光は、何かを覆い隠すように白く部屋を埋め尽くしていった。
少しすると、光は落ち着いていった。そして収束した光の中心に、先までいたはずの少女の姿は無かった。
代わりに在ったものは――四つ足を投げ出し、眠り続ける獣の姿。
「――人ならざる、もの……」
白い狼だった。
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