どうせ一生、屋敷から出ることは叶わない。
――閉ざされたここは箱庭のよう。
他の誰にも会わない。
――だあれも助けてくれない。期待もしていないけれど。
だから、幾ら傷がついたところで、幾ら身体が歪んでいったところで、関係なかった。
――出来れば、私を見ないで欲しい。元から綺麗でもなかったのに、更に汚くなった私なんて。
私はもう空っぽなのかも知れない。
私自身の“何か”なんて無い。
なにも、ない。
は最近、よく夢を見るようになった。
それは現実に起きたことをただ振り返るだけの、辛く、夢とは言い難いものであった。
今日もまた、心の淀みを整えようと、彼女の無意識は記憶を揺さぶる。
蘇ってきたのは、つい最近の風景。姉と遊べず、遊べぬ理由を聞くことも出来ず、ぐずるアルトとリィーナの姿だった。
いとおしい弟妹の声に、はゆっくりと耳を傾けた。
「――お姉ちゃん、だいじょうぶ?」
「大丈夫だよ、心配しないで」
「本当? いたくない?」
「旦那様が薬をくださるの。だから平気だよ」
気弱なアルトだけでなく、楽天家なリィーナも泣きそうな顔であった。は、しがみついてくる二人の頭を撫でながら、ずっとあやしていた。
――ふたりのためなら、私は頑張っていける。小さくてあたたかなこの子たちを、守るためなら。
は笑った。
――私は賢くないから、実験で何が得られるかなんて判らなくて。毎日辛くて、辛くて。でも死ねなかった。
は思い返した。
痣になる程に薬を打たれて、見たこともないような刃物を持たされて魔物と戦ったこと。たくさん怪我をして、怖くて堪らなかったこと。体の痛みはエアルに癒されようとも、心の痛みは醜い跡となり引き吊り、悲鳴を上げ続けていた。
魔導器がまだ馴染まなかった最初の頃は、急に右目が痛み、頭痛は絶え間なく続いた。意識が途切れ、義眼からも傷跡からも血が滲み、服を汚した。
しかし馴染んできてからが一番おぞましかった。魔物との戦いで怪我をしても、他人事のようにその感覚が遠い。確かに痛みが走ったはずが、幻のように遠ざかる。戦い、生きるために、魔導器がの脳をいじくって、そうさせていたのだ。
エアルに包まれながら眠る時には、自分が自分ではない獣になる夢を見たりもした。
魔導器は、を少しずつ人間の枠から外に押しやっていく。
――それでも。
それでも彼女が人間としていられたのは、アルトとリィーナがいたからだった。二人がいれば、は姉として存在することができた。
は確かに強くなっていた。
今なら、あの子たちを連れて逃げ出せるかもしれない。そう考えたこともあった。しかし、出来なかった。
――こんな孤島で。箱庭で。下手なことをしたら、旦那さまはきっと、アルトとリィーナを……。
ウォクスによって恐怖に支配されたの頭では、希望を見出だせなかった。頼れるものは全て喪われていた。
だからは耐えた。
薬が体に合わず泣き叫んでも、そのうち叫ぶことすらできなくなっても、何があっても。魔導器に頭を揺さぶられるような苦しみを覚えても、魔物に肉を千切られても、骨を砕かれても、ずっと。
絶え間なく続いた実験に、はずっと耐えた。私が我慢すれば、あの子たちは無事なんだから、と。
何日も、何日も、は耐えた。
耐え続けた。
耐え続けた。
耐え続けていた――。
「お姉ちゃん」
アルトの呼び声に、ははっとして顔を上げる。アルトとリィーナが、泣きそうな笑顔で彼女を見上げていた。
「お姉ちゃん、つらいなら言ってね」
「ぼくら、お姉ちゃんが大好きだよ。いっしょにいたいの」
「だからね、つらいのもなかよく分けてね、いっしょにいたいの」
は震えた。
まだ甘えたい盛りのはずであろうに、アルトとリィーナは姉の苦しみを悟り、堪えているのだ。
魔導器と化した右目から、涙が滲むのをは感じた。
この心の最後の支え。
大好きな子たち。
己の無力さを、彼女は心から詫びた。
「ごめんね、ごめんね。お姉ちゃんが頼りないばかりに……!」
互いに抱き締め合いながら、彼女たちは、大きな声を上げて泣きじゃくった。
久しぶりの“一緒”だった。
――は、そこで目を覚ました。
部屋は薄暗く、窓から差し込むのは陽ではなく月の光。随分と眠っていたらしい。
あの子達にご飯も作らないで、私ったら。
己をひっそりと恥じながら、彼女はベッドから降り、部屋を出た。
台所へと向かう途中、は僅かな違和感を覚えた。
人の気配が無いのだ。
胸騒ぎがした。心を宥めるために、過ぎる部屋のひとつひとつの扉を開き、中を確認していく。ひとつ、またひとつ。しかし、誰もいない。見当たらなかった。
「なんで、いないの……?」
元々この屋敷には人が少ない。使用人の数は片手で足りる。主人であるウォクス自身が身の回りのことは自分でこなす方であるため、あまり人手を必要としている様子がなかった。そんなウォクスの元で育ったたちも彼に倣い、自分で自分のことを行っていた。
だから時折、屋敷が広く感じることもあった。しかし、今のこれは――。
ずきりと右目が痛んだ。胸騒ぎが増していく。ぞわりと寒気が背中から這い上がってきて、彼女の中にひとつの可能性を落としていった。その可能性に、彼女は狼狽えた。
だってそれは、有り得ないことなのだ。が魔導器と繋がった時、ウォクスは確かに約束したのだから。
兄弟の身の安全は保証すると――。
「言ってくれたよね? 旦那さま……」
幾度となく自身に言い聞かせたものの、駄目だった。
この目で確かめなくてはならない。
は走った。
目指すのはあの場所。飛び込んだウォクスの部屋は相変わらず散乱していて、紙の束に足が縺れた。書類を蹴散らしながら、地下へと続く扉に手を掛けた。真っ暗な闇の中、壁伝いに階段を駆け降りる。嫌が応でも慣れた地下の異臭が鼻を突いた。
“そう”ではありませんように。
は祈りながら地下の部屋をひとつずつ巡った。鍵の掛かった扉は無い。ウォクスが地下にいる時、地下室の扉は基本的に解錠されている。魔物の部屋など、例外を除いては。
つまり今、この地下にウォクスがいるということだった。
は覚束ない呼吸を繰り返しながら駆けた。
――そう言えば旦那さま、アレクセイさんたちが来てから様子が可笑しかった気がする。
巡る思考は、彼女の走りに比例して忙しなかった。
――何かを急いていた。焦っていた。“もうひとつ”って、何かを。時間がないんだって、ずっと。
手当たり次第に調べるうちに、部屋は最後のひとつになっていた。一番ウォクスが居座る時間の長い部屋。実験に必要なあらゆるものを詰め込んだ部屋。
が初めて地下を訪れた時、子供が死んだ部屋。
私の思い違いでありますように。
懇願しながら、扉に手をかける。
そんなはずありませんように。
あの子たちがいなくなってしまったら、私には何もなくなってしまうのだから。
旦那さまが、アルトとリィーナにまで同じことをしたりなんかしていませんように。
少女は、涙ぐみながら扉を開いた。
――部屋にはウォクスがいた。彼は扉の開く音にやや遅れてから振り返る。がいることを認識すると、ああ、とぼんやりした声を漏らした。
「おはよう。いや、こんばんはかな。」
場に不釣り合いな朗らかさに、は苛立った。ウォクスに駆け寄りながら声を張り、問い掛ける。
「旦那さま、アルトとリィーナは? 屋敷の何処にもいないの!」
「ああ、上にはいないだろうね。誰も」
「私が訊いてるのは、あの子たちのことなの!」
ウォクスの腕を掴み、は強く彼の体を揺さぶった。何度もは訊いた。アルトは、リィーナは何処かと。強く強く。ウォクスは張り付いた笑みを崩すことなくを見つめている。
「慌てないでいいんだよ。二人とも、すぐそばにいるじゃないか」
は目を丸めた。ウォクスの指す方を見やると、薄暗がりから何かが近付いてくるところであった。
心臓が、跳ねた。
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