それは小さな子供の影だった。ふたつある。
照明の下にようやく来た影が、探し求めていた弟妹の姿であることをは認めた。
「お姉ちゃあん……」
泣きながらアルトはを見つめていた。俯き、ふらつくリィーナの手を引き、必死に歩み寄ってくる。
は二人に駆け寄った。
「アルト、リィーナ! 大丈夫? 大丈夫だった?」
「リィーナが、リィーナがぁ……」
「どうしたの、アルト、何が……!」
アルトの手から、リィーナの手がするりと抜ける。ふらりと重心を失い、リィーナは、が手を差し伸べる間も無く床に頽れた。
「リィーナ!」
青ざめながらは妹を抱き起こした。そして、その顔を見て言葉を失った。
瞳は光を取り落とし、虚ろであった。半開きの口から、目尻から、赤混じりの液体が伝い落ちている。ぴくりともしない表情と、両腕に掛かる重みが全てを物語っていた。
赤子のように据わらない首が、がくりと垂れる。は慌てて腕を回し直して、リィーナの頭を支えるように包み込んだ。
「リィーナ……リィーナ? お姉ちゃんだよ? どうしたの? リィーナ、リィーナ、リィーナ? ねえ、リィーナ?」
は、震えながら妹を見つめていた。譫言のように掠れた声で何度も何度も呼び掛け、小さなリィーナの体を揺すり、答えが返ってくるのを待った。体液で汚れたリィーナの頬に己の頬を寄せた。ほんのりまだ温かい。しかし少しずつ、着実に温もりは遠ざかっていく。自分の体で温めるようにリィーナを抱き締め直し、は絶えず呼び掛けた。大好きな妹に。大事な妹に。
妹は答えない。
これを現実とは認めたくなかった。
あってはならないことだった。
しかし真横で泣き続けるアルトの声が、すがり付いてきたアルトの姿が、に訴える。
――妹は死んだのだと。
「この子たちがね、“お姉ちゃんのお手伝いをしたい”と言うものだから……甘えさせてもらったんだ」
歩み寄ってくるウォクスの語りと足音が、無機質な部屋に反響する。
「リィーナはね、“準備”に耐え切れなかったんだ…。可哀想に」
耐えきれなかった?
なにが、どうして?
リィーナが、どうしてリィーナが?
しんでしまったの?
私の、だいじな、妹。
旦那さま、と呟いたつもりが声にならない。
は妹の遺体を庇うように背後へ寝かせた。それからアルトへと手を伸ばした。寝かせたリィーナと抱きつくアルト、ふたりの体を、腕を見る。よく見慣れた注射痕があった。自身が受けたような投薬を、この弟妹まで受けさせられたことをは気付いた。
その投薬が“準備”とやらであり、リィーナはその準備に耐え切れず、薬による中毒症状で死に至ったのだと。
驚異的な治癒力を持つですら気が狂いかねなかったのだ。こんなに幼い子が耐えられるはず――。
ははっとした。もう一度アルトを見る。泣きながらも、傷つきながらも、アルトは生きている。
先にウォクスは“この子たち”と言っていた。“リィーナは”と言っていた。
アルトは?
その先にあるウォクスの思惑を、彼女は悟ってしまった。おぞましさに震え、身体が凍える。
「アルトは、お姉ちゃん似のようだ」
ウォクスが笑った。
は声にならない叫びを上げた。震える弟の体を掻き抱いて、立ち上がる。恐怖にすくんだ足はすぐに力を失った。
頽れ、しかしは必死にウォクスから離れた。決してアルトを離さずに、這いずるように石畳の上を動く。アルトも必死に姉へしがみつき、泣きじゃくり続けていた。
近づくウォクスの姿は、闇色の獣に似ていた。薄暗い地下じゅうに、この男の狂気が蔓延っていた。穢らわしくて、吐き気がする。体の中から腐っていきそうだった。
此処から出なくてはならない。
は縺れる足に鞭打った。体を石畳に何度も打ち付けながら、机や実験の魔導器にぶつかりながら、逃げ続けた。実験室に置き去りにしてきてしまった妹の亡骸に何度も謝りながら、残された弟だけでも逃がそうと彼女は己を叱咤しながら動き続けた。
芋虫のように無様で、健気で無意味な逃避だった。ウォクスは薄ら笑いのまま眺めていた。ゆっくり歩を進めながら、子供たちを追い掛け、追い詰める。労せずしてを捕らえる方法が、彼には幾らでもあった。
「私はが大事なだけなのになぁ……」
ウォクスの手には小さな魔導器が握られていた。魔導器を、逃げるの背中に向ける。それは彼女の義眼に仕組まれた、制御術式に作用するスイッチであった。ウォクスは笑ったまま、魔導器を発動した。
瞬間、が叫んだ。地下の冷えた空間を、鋭い悲鳴が引き裂いていく。右目の魔導器から放たれた何かが脳を貫き、最奥で爆ぜる。耐え難い激痛と衝撃に、はばったりと倒れた。
反動でアルトは投げ出され、床に強か体を打ち付けてしまった。しかし幸か不幸か、気を失わずに起き上がる。
急に意識を失った姉に、アルトは慌てて呼び掛けた。姉の鼻から、口から、義眼から、赤い筋が伝って灰色の床に落ちていく。さっき死んでしまったリィーナの顔によく似ていて、アルトは怖くなった。
このままでは姉が死んでしまう。アルトは泣き叫びながらの体を必死に揺さぶっていた。半狂乱しながらも、何度も姉を呼び、しがみつき、揺すった。それしか出来なかった。
姉を呼ぶ弟の叫び声は、程無くして潰された。
誰も救われはしないのだと。
こちらを嘲っているものがいた。
それを許すわけにはいかなかった。
はゆっくりと目を開けた。
頭の中には、強く打ち付けたときのように激痛が鳴り響き、平衡感覚を奪っている。それでも腕を支えに、彼女は体を起こした。
周りには何もない。静寂が広がっているだけだ。
魔導器に何かが起きて気を失ったことは覚えている。口の中から喉の奥まで鉄の味が染みている。気を失う前の記憶がようやく返ってくると同時に、は弾かれたように立ち上がった。相変わらず頭は痛いが、そんなことはどうだって良い。
「アルト……!」
消えた弟の姿を探して、は歩き出した。
ふらつきながらも何とか実験室に戻ってくることができた。しかし、アルトは愚か、リィーナの姿さえ見当たらない。は焦った。
「リィーナ、アルト……どこなの!」
は叫んだ。返事がある可能性は無いに等しかったが、それしかない。あらゆる部屋を漁りながら、探しながら、軋む体を引き摺りながら。は彷徨い続けた。
その時、僅かに光が揺らめくのをは見つけた。揺らめきは近付いてくる。反射的に彼女は駆け出し、その正体を正面から捉えた。
光の正体は、ランプを携えたスフィナであった。
「」
スフィナは何かをに差し出した。受け取ってすぐに、それは彼女の手によく馴染んだ。当然である。毎夜の実験で命を繋ぐ得物の、大鎌。スフィナが寄越したのはそれだったのだから。
言葉もなくスフィナを見つめ返す。スフィナは頭を下げると、話し始めた。
「私たちにとって旦那様は素晴らしいお方です。妹様やご両親を早くに亡くされ、それでも世のためにと必死に魔導器研究に明け暮れ、そんなあの方に私たちも必死に応え、ついて来たのです」
「……それで?」
「旦那様の研究が常軌を逸したものに変わってからも同じです。反発した者はその身を以て研究の力とならざるを得ませんでした。旦那様共々、私たちも引き返せぬ場所まで来ていた」
「……全部判ってたのね」
「……謝って済む問題では無いと知っています。けれどね、……」
「アルトたちは何処ですか」
スフィナの声はの問い掛けによって遮られた。酷く落ち着いた声だった。清らかささえ感じるほどに澄んでいる。
何処か遠いの――どうでもいい、と語ってくるような眼差しに、スフィナは僅かに狼狽えた。
「え、ええ……。この先の施術室に」
再度スフィナの声は遮られた。
白い光が走り、彼女の首を胴体から切り離す。一閃であった。断面から散る血飛沫が、刃の軌跡をなぞりながら壁に飛び散った。一拍遅れて落下した頭が、重い音を立てて床にぶつかる。
目を見開いたまま、頭は転がった。反動で揺れるそれに、は見向きもしない。首無しの侍女の体は、板のように倒れていく。
「アルト……」
携えた大鎌を血に濡らしたまま、新しい骸を足で押し退け、はスフィナの示した通路を駆けていった。
は激昂していた。
この期に及んでスフィナが謝ろうとしていたこと。ウォクスを止めて欲しいと頼みに来たであろうこと。彼女らが荷担してきた全て。ウォクスという存在。それらを今まで蔓延らせてきた世界も、何もかも。
許せない。
の中で生まれた怒りや憎しみは激流となり、満身創痍な彼女の背を押していた。
許さない。
何もかも許さない。
「待ってて、アルト……!」
大切な肉親の為ならば、人殺しになることすらこんなに軽い。
限界をとうに越えた彼女を止めるものは、何も無かった。
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