次第に義眼から伝わる痛みは増していたが、それよりもずっと痛むものがの胸の内に在った。
 何故自分はこんなに弱いのか。
 何故自分は今まで抗えなかったのか。
 何故こうして動くまでに時間が掛かったのか。
 何故大事なものを失ってからでなければ動けなかったのか。
 既に取り返しのつかないことが多すぎて、いくら後悔を重ねても尽きない。
 スフィナが話していた部屋に着くまで、然程時間は掛からなかった。
 自然と武器を握る手に力が籠る。は歯を食い縛り、一旦痛みをやり過ごしてから、施術室へと踏み入った。

「アル――」

 声が凍りつく。
 呼ばずとも、眼前に横たわるアルトの姿があった。手術台の上に寝かせられたアルトの息は荒く、苦しそうに胸を上下させている。台の真上の天井に吊るされた光照魔導器が、くっきりとその様を映し出す。
 武器を投げ出し、は手術台に駆け寄った。大鎌は、灰青の床を鳴らしながら滑っていった。
 いとしい弟の顔を、ようやく覗き込む。
 彼女の精神を再び惨状が襲った。

「アル……ト……」

 施術は行われてしまった。
 アルトの顔には、と同じような義眼魔導器があった。位置はと揃いの右目。しかしアルトには大きさが合わなかったらしい。無理矢理捩じ込まれた義眼魔導器によって、顔が歪んでしまっていた。
 その辛さにどれだけ泣き叫び、抵抗したのだろう。頬は腫れ上がり、無事な片目も充血している。溢れ続ける涙と鼻水にまみれ、顔全体がぐしゃぐしゃに濡れていた。

「おねえ、ちゃん……?」

 蚊の鳴くような声だった。魔導器を入れるために裂かれ、粗雑な縫合で捲れ上がった皮膚からは血が滲んでいる。形の合わない魔導器のせいで出来た隙間からは、かつて眼球があったであろう空間の名残が見えた。

「おねえ、ちゃん……」
「うん、うん。お姉ちゃんだよ。アルト、私だよ」

 アルトが伸ばした右手を彼女は素早く両手で握り締め、答えた。
 術後に治癒術を施すはずの人間は……スフィナは、先にが殺してしまっていた。たとえスフィナが存命で、此処に連れてきたとしても――これでは。
 弟の左目が濁っていくのを見ながら、は絶望に震えた。ぐらつく義眼の術式も燐光も、途切れ途切れで拙い。
 もう殆ど、アルトの目は見えていないことを悟った。それが意味する最悪の結末までも。

「おねえ……ちゃん」

 アルト、と呼び掛けるの声もすっかり掠れていた。なるべく優しく、姉は弟の体を抱き起こした。リィーナの最期にしてやったように、自分の温もりで弟を包み込んでやる。
 答えるようにアルトが腕を伸ばし、の服をそっと掴む。弱々しいが、しかし、確かに。大好きな姉に、最期の力ですがり付いた。
 ごめんね。
 は涙を溢していた。先に目から流れていた血と混じり、薄紅の雫となって落ちていく。

「……おねえ……」

 雫は、命尽きた弟の頬で受け止められた。
 動かなくなったアルトの腕が、力なく垂れ下がる。その時、弟の手から滑り落ちるものがあった。
 銀色のペンダント。が弟妹に託した、母の形見であった。
 ずっと握っていたのだろう。そして耐えていたのだろう。
 姉の助けを待ちながら。
 は嗚咽を堪えなかった。弟の亡骸にすがって泣き続けた。
 最後にもう一度、と覗き込んだ弟の顔は、安堵の笑みに満ちていた。大好きな姉が迎えに来てくれた――。その想いが、体を壊され尽くした痛みに勝ったのだ。
 辛うじて填まっていたアルトの義眼は、ずるりと赤黒いものを引き摺りながら落ちていった。ぷちぷちと糸を千切るような音がした。
 ぐちゃぐちゃの、けれど、大好きな家族の最期。
 は、その全てを見届けた。
 妹が死に、弟が死に。の中には何もなくなっていた。
 彼女が人で在る理由は、死んだ。

「あれ、スフィナは何処に行ったのかなぁ、うーん」

 茫然自失の彼女の元に、呑気な声が響いてくる。ふらりと影のように揺れながらウォクスが現れた。アルトを抱くの姿に気付くと、ああ、と軽快に笑ってみせた。

「すごいな! 死にはしないけど死にそうなぐらいはアレが効いたと思ったんだけどな」
「……アレ?」
「君の魔導器に仕込んだ術式さ。悪いことをしたりしないよう痛め付けたり、君が嫌がっても力を使えるようにね」
「そう……」

 あの痛みで死ねていたら楽だったろう。
 ぼんやり思いながらは、弟だったものをそっと手術台に戻した。床に落ちたペンダントを拾い上げ、それを自身の服の中へしまった。
 家族と彼女を繋ぐ最後の絆だ。
 力ない彼女に、ウォクスは何時もの調子で歩み寄ってくる。

「アルトの手術をって時にスフィナがいなくなってね。術後のケアが肝心なのに。そうだ、君には治癒術の才がある。アルトを治してあげて欲しい」
「……治す?」
「ああ。ちょっと君の場合と違って能力が劣っていたものだから、都合上筐体が大きくなっちゃってね。裂けてしまったから。早く治さないと傷がぐちゃぐちゃになっちゃうだろ?」

 治す、って?
 虚ろな彼女の中に、黒い澱みが込み上げてきた。
 身勝手にこの子の体を壊しておいて。
 他人事みたいに笑って。
 何を言っているの、この男は。
 澱みはうねり、濃度を増していく。蛆のようにの身体中を這いずり、埋め尽くしていく。
 警鐘のように響き頭を揺らす痛みが、遠退いていった。判らなくなった。

「死人を、どう治せって言うの……」

 そうして、空虚と為った彼女の全ては、新たに満たされた。
 ウォクスを振り返る彼女の目から、真っ当な意思は消え去っていた。
 はウォクスに詰め寄った。ウォクスの腕を軋ませるだけ掴み、激情任せの叫びを放った。

「お前のせいだ! お前のせいで! 返して、私の家族を、家族を返して!」
「え? ああ、そうか……」

 ウォクスは手術台を見た。ようやく状況を察したらしい。

「死んじゃったのか。残念、困ったね」

 瞬間、の右手が彼の顔めがけて振り抜かれた。少女とは思えぬ威力の拳を受けて、ウォクスは吹っ飛んだ。薬品棚にぶつかり、呻きながら床に崩れ落ちる。硝子戸が割れ、劇薬もろともウォクスに降り注ぐ。
 酸に体を焼かれながらも、ウォクスはの姿に驚嘆していた。

「脳へ直接ダメージを喰らった後で、そんなに動けるなんて! やはり魔導器と君の体の相性はばっちりだ、さすがだよ! もう普通なら立ってさえいられないだろうに! 素晴らしい同調だ!」
「お前がそう作ったくせに!」
「ああ、私がそう作った! そうだよ!」

 激昂と狂喜。
 相反する感情のぶつかり合い。
 施術室じゅうに二人の叫びが響き渡った。決して交わらないものを抱えたもの同士の、理性の飛んだ本能だけの言葉。

「せっかく始祖の隷長の神秘に、リゾマータの公式に触れられたのに! 世界なんかのために渡してなるものか、なぁ、!」
「知らない! 知らない知らない知らない知らない! 聞きたくなんかない、何も!」
「判っているんだろう、、なあ、なあ!」

 ウォクスの笑いはの耳を突いた。

「最初から君は常軌を逸していた! 私の魔導器を受け入れて君は更に進化した! 私が作った最高の魔導器、最高の作品だ! 革命だよ! !」
「うるさいうるさいうるさいうるさい!」

 は鎌を拾った。それを見てウォクスは装置を取り出した。彼女の義眼に作用するあの装置だった。
 起動した装置によって、の脳はまた揺さぶられた。彼女は絶叫した。視界が弾け、足が縺れる。身体中が焼かれたように熱い。せり上がってきた熱をむせながら吐き出した。真っ赤な血が床を汚していく。
 鎌を支えに、はウォクスを睨め付けた。義眼から、口から、赤を垂れ流しながら。それでも尚、彼女は生きていた。
 異常な生命力を目の当たりにして、ウォクスは再度叫んだ。

「君はもう、自分が人間じゃなくなってるって判っているんだろう!?」

 彼の言葉に反論すべき要素が、には無かった。
 魔物に肉を食まれても、骨を折られても治った。エアルを吸って、一晩で体を癒した。
 己に害なすものならば、いくら殺めても心は痛まなかった。体を襲う痛みの感覚に慣れ、血を浴びることに慣れ、命奪うことに慣れた。たとえ相手が人間だとしても。
 夜な夜な見た、獣になる夢もあながち夢では無かったのかもしれない。
 もう人間じゃない――。
 人間になりそこなった獣。
 生ける魔導器。
 確かに判っている、けれど。

「それで、いい」

 既に人間である必要のなくなった彼女には、どうでもいいことだった。
 ウォクスは何度も制御装置をいじくった。そのたび、叫びすら上げずには激痛を凌いだ。
 一歩ずつ確実に、距離を詰める。

「人間じゃない……私も……お前も」

 呻くようなの声がウォクスの鼓膜を突いた。
 その時、ようやくウォクスは自分が“何”を敵に回したのかを知ったのだった。
 近付いてくるのは、か弱い少女ではなく、ましてや彼の“もの”でも無い。
 初めてウォクスの顔に恐れが浮かんだ。
 それを確かめてから、は三日月を振り抜いた。
 大した手応えもなくウォクスの体は両断された。断面から溢れ出す血。痙攣するウォクスの体。
 は叫んだ。
 叫びながらもう一度鎌を振るった。
 もう一度鎌を振るった。
 もう一度。
 もう一度。
 もう一度。
 もう一度。
 ウォクスの体は刻まれ、朱に染まり、人の形を失い、ただの肉塊へと変わっていく。
 返り血に身を染めながらも、は止まらなかった。
 変わり果てたウォクスから離れた彼女は、ウォクスの研究成果を壊して回った。魔導器も、資料も、何もかも。屋敷にある全てを壊した。皮肉にも、ウォクスの与えた義眼がそれを後押しする力となった。
 暴走した力の奔流が屋敷を呑み込み、そこかしこから火の手が上がった。それはにまで及んだ。しかし壊れた少女は止まらなかった。
 全てを消し去るまで、止まらなかった。
 自分たちの存在の欠片さえ残さぬようにと。

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