――怖いゆめを見る。
お父さんもお母さんも私の体がおかしいことに気づいて気味悪がっている。
友だちなんていない。みんな私を痛めつけることに夢中だった。
お父さんもお母さんも同じだった。
気持ち悪いから、相容れないから、痛めつける。痛めつけて大人しくさせる。
ああ、お兄ちゃんだけだ。お兄ちゃんだけが私の味方だ。
お兄ちゃんは私の怪我を心配してくれる。体を心配してくれる。
だけど、だけどね。
その笑顔が、何だか、ちょっとおかしい気がするんだ。
こんなだっけ、笑顔って?
ねえ、お兄ちゃん。
――お兄ちゃんは、味方で良いんだよね?
またあの夢だった。
言いようのないどんよりとした重たいものが腹の底にあった。
今日は誰にも起こされることなく、ひとり、うなされながら起きた。あの時のアンサーのように誰かが来てくれたらここまで憂鬱な想いはしなかっただろうか? ……そんな考えは欲張りに過ぎない。
脂汗の滲む額をタオルで拭い、溜息を吐く。
桶に水を張って、体を拭くことにした。下着姿になって、濡らしたタオルを使って汗を拭きとっていく。
「、起きてるか?」
チップが来たのは、そんな最中のことだった。
下着姿で固まる。の姿を見て固まるチップ。が叫びも怒りもしないので、チップは一人で冷静になり、そっと彼女に背中を向けた。
「俺としたことが……。悪かった」
「良いよ、良いよ。見られて減るものでもないし。色気が無くてごめんねぇ」
はいそいそと服を着た。もうほとんど体は拭き終わっていたし、切り上げても問題ないだろう。軽口を叩きながらは桶の水を流し台に捨てた。大量の水を小さな流し台に任せたあたり、もいささか動揺していたのかもしれない。
「もう良いよ」と背中を向け続けるチップの腕をつつくと、ようやっとチップはの方を向いた。
「本当にすまねぇ……」
「そんなに落ち込まないでよ。事故だよ事故。わざとだったら、おばあちゃんでも怒ってたけどね」
「おう……」
チップの「嫁入り前の娘の裸を見るなんてよォ……」まるでジャパニーズの父親のような台詞に、はくすりとした。といっても、は父親にそんなことを言われたことが無い。一般的な父親の概念のようなものとして記憶している。
父親。夢のことを思い出して、は胃の底が冷たくなるのを感じた。
ひとしきり反省したらしいチップは、暗いの表情を見下ろしている。
「やっぱりな」
「え?」
「今日も夢見が悪かったみてぇだな、って」
――お頭の勘は鋭すぎてもう魔術の類なのではないか。
そう呟いていたアンサーのことを思い出す。
真剣な表情で自分を見下ろすチップを、は、敵わないなと見つめ返した。
「うん。そう。酷い夢だった」
「話してみろよ。悪い夢は人に話した方がいいんだぜ」
「……優しいね」
「まあな」
がベッドに座ると、チップも隣に腰掛けた。
「この間、アンサーにも話したんだけどねぇ……。聞いてもらって本当に良い?」
「気にすんなって、聞くっつってんだろ」
「ありがと……」
ぽんぽんとチップに頭を撫でられると、は酷く落ち着いた。このままずっと撫でてもらいたいと思った。そのぐらい心細かった。辛かった。あの夢はを蝕んでいた。
アンサーに話したことと大体同じことを、はチップに明かした。
昔から怪我の治りが異常に良く早く、両親や近所の人々に忌み嫌われていたこと。
そんな中、兄だけはを受け入れてくれたこと。
しかし夢の中に出てきた兄の姿は、の知る兄の姿と少し違っていたこと。が何をしても、何を言っても、ずっと張り付いたような笑みを浮かべていた。その笑みがチップやアンサーの向けてくれるものとは違って、何かがずれている。それがたまらなく恐ろしく、悲しく、辛かった。
……そういったことを。
実はチップは、のこの話を聞くのは二回目になるのだが、まるでそんな素振りを一切見せずに真剣にの話に耳を傾けてくれていた。
一通り聞いたチップは、しばらく沈黙していた。
「本当に変な夢だよねぇ……」
話しながらぽろぽろ泣いていたの背中を優しくさすりながら。
黙したままチップは考える。
――の兄は、の期待しているような兄ではない、と。
の兄もまた、の異常な能力に恐れていたのだろう。ただ両親たちのように排他的に接するのではなく、『自分は味方だ』とに思わせることで、という驚異から身を守ろうとしていた。気持ち悪さや恐れを堪えて、に接していた。
次第にその接触は、兄を歪めていくことになる。が自分にだけは懐いている、自分にだけは普通の人間として接してくる。周囲に踏みにじられようとも「お兄ちゃん」と助けを求めてくる。時には手を上げてしまっても「ごめんなさい」と「嫌わないで」と縋ってくる。
兄は優越感を覚えた。は決して自分には逆らわないのだと。
何かあればその身を挺して自分を庇いにやって来るほど、は自分に依存しているのだと。
その依存を利用して、口に出すのも憚られるような行為に及んだりもしたかもしれない。
だから常に笑顔であった。が未熟なことを知って、笑顔を張り付けていた。
しかし今、ここに来てからのは、他の住民やチップ、アンサーと触れ合ううちに“本当の笑顔”というものを知るようになった。
だから兄の笑顔が張り付いているだけのものだと気づいた。
しかし百年以上信じてきた兄が、まさか薄っぺらい笑みで自分を支配していたとは思えず、は混乱している。
薄々勘づきながらも兄を信じている彼女は、無意識のうちに涙を零す。
――俺の中では大体ピタリと来ちまった、が。
それらを素直に伝えてはの心は壊れてしまいかねない。普段明るく振る舞っているからといって、その通りに強いわけではないのだ。
チップはをなだめながら言った。
「オマエの兄貴がどんな奴だったか、もう確かめる方法は無え」
「うん……」
「ただ、間違いなくオマエには兄貴がいた。それしか俺らには分からねえんだ。、オマエは長く生き過ぎてあちこち記憶が朧げなトコがある。何かしらの思い違いや食い違い、思い出の美化またはその逆があっても仕方ねえよ」
は涙を拭いながら、うん、うん、と頷いている。
チップは笑った。
「けどま、俺とアンサー、それからここに住んでる奴らは間違いなくオマエの味方だ。今は味方がこんだけいるんだ、それでひとまず良しとしねぇか?」
チップの笑顔を見つめながら、泣きながらではあったがは何とか笑みを浮かべる。
「そうだね。そうだよね。今のにはチップたちがいるもんね」
「おうよ。頼もしい限りだろ?」
「頼もしいね。だって、チップ、とっても強いしカッコイイもんね。アンサーも、みんなも」
はそう言うと、急にチップに抱き着いた。慌ててチップはを受け止める。
すっかり泣き腫らした目は赤かったものの、笑顔はいつもののものになっていた。
「ありがと! チップ!」
「元気が出たなら何よりだぜ、よしよし」
頭を撫でられてはすぐご機嫌になった。子どもっぽいと言われるかもしれないが、落ち着くものは落ち着くのだ。誰かに励まされる。誰かが近くにいてくれる。誰かが「味方だ」と言ってくれる。それらが嫌いな人間などいないだろう。
そしては、誰かに励まされ、寄り添われ、味方でいてもらえる分、自分も誰かを励まし、寄り添い、味方でいたいと思った。
「私もチップとアンサーとみんなの味方だからね! 頼れるときは頼ってよね!」
「おう」
「痛いこともみんなの為なら大丈――」
「……待て」
急に空気が変わる。
どうしたのだろう、とはチップを見上げる。
……チップの目が据わっていた。
「オマエは自ら進んで痛い目に遭うってのか?」
「え、えっと……」
「そういうふうに聞こえたね、俺は」
チップはを引き剥がし、その細くて小さい両肩を掴んだ。
「こんな細っこくて小さい体で、一丁前にオマエは俺らの『盾』にでもなろうってのか? ふざけんなよ。オマエなんかに守られなきゃならねえほど俺は弱くねぇ」
ぎり、と両手に力をこめると、は痛みに顔を歪めた。
「い、痛いよチップ……」
「じゃねえと分からねぇだろうが。良いか、よく聞け。そういう“自分がどうなってもいい”みてぇな発言は二度とすんな」
「わ、わかっ」
「目ぇ逸らすな」
は初めてチップを怖いと感じた。しかしどうしてチップがこれほどの覇気を持って話すのか。全てはを思ってのことであると分かっていた。だから彼の言う通り目を逸らさずに、は言った。
「ごめんなさい。本当は痛いのは嫌だから……わかってるよ」
でも、とは口にした。
「でも、そうでもしなきゃっていう人間には、人間かも分からないものには、価値が無いのかと思っちゃったんだよぉ……!」
せっかく泣き止んだのに、は再び泣き出してしまった。
チップも驚いて肩から手を離す。
「今までずっとそうしてきたんだよぉ、小さい子の代わりに、体の弱い子の代わりに、私が傷つけば良いって、思ってきたんだよ! 他にはには何も無かったから! でも、でも、そうやって傷ついても、みんな気持ち悪がっていなくなっちゃうんだよ!! どうすれば良いって言うんだよ!」
はぼんやりと思い出していた。誰かの為に体を張って生きてきたこと。代わりに傷つくことぐらいしかできなかったから。でも体を張って守っても、助けても、生ける屍のように傷を無かったことにするを見てみんな去って行ってしまうのだ。どんな大怪我ですらも立ち直るを、怪物だと化け物だと罵り叫んでいなくなってしまうのだ。だからと言って何もしないで寄り添おうとすれば、より先に相手は老いて死んでいく。結局いなくなってしまう。
誰かと一緒にいたいのに、誰とも一緒にいられはしない。
わんわんと大泣きするに、チップも声を張る。
「ここにいる限り、二度とそんな真似しなくて良いんだよ! この先ずっとな! それにオマエがどうであろうと気持ち悪がったりしねぇ! 俺は勿論、アンサーも、みんなだ! オマエはもう大事な仲間なんだよ!」
「分かんない、本当は分かんないじゃない!」
「オマエを助けた俺たちを信じろよ!」
ははっとした。チップの眼差しは突き刺すようなものから、懇願するようなものに変わっている。に信じてほしい。に泣き止んでほしい。に自分を大事にしてほしい。沢山の願いに満ちた、熱いもの。
……は俯いた。
「ごめんなさい……。本当はチップとアンサーとみんなのこと、大好きなの」
「分かってるよ」
「私、チップたちと一緒に年を取りたいよ。もう置いてけぼりは嫌だよ」
「それは……あー、色々調べてみるしか無えかな」
「もし無理だったら、私、東チップ王国の語り部になるよ」
「そりゃ良いな。カッコイイ初代大統領の華麗なる功績を語り継いでくれ」
ぐずるの背中をぽんぽんと叩いて、チップはこまめに返事を返してくれる。
そこに、外から、どたばたと何かが駆け寄って来る音が聞こえた。
テントに飛び込んできたのは……ミミックである。遅れてアンサーもやって来た。
「お頭ァ! 何やってんですか! ミミックくんが『チップとご主人の争う声が聞こえる』なんて言うもんだから……って、あれ? そんな雰囲気ではない?」
「! ? !!?」
「ミミックくん、あなたの杞憂では?」
「!!」
アンサーの言葉にミミックは憤慨したのか、彼の足に噛みついた。「あいたっ!」叫ぶアンサー。
騒がしい二人の乱入によりすっかり毒気を抜かれたチップとは、顔を見合わせて笑っていた。
その日からは、例の悪い夢を見なくなった。似たような薄暗いものを感じる夢はいくつも見たが、どれも起きてからこう考えれば気にならなくなるのである。
「チップとアンサーとみんながついているんだから!」と。
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