〔CCG〕20区支部。
 此処に不思議な訪問者が現れた。
 情報提供のために一般人が訪れることは珍しくないが、それとは少し毛色が違う。
 いまいち何処を見ているか判らないボンヤリとした眼差しと、金色とも銀色ともとれるやたら長い髪。纏う雰囲気も幻想的……というか、間の抜けた感じの女性だった。
 彼女は受付に近づくと、こう話した。

「先日、鈴屋什造さんに助けて頂いた者です。篠原幸紀さんにも大変お世話になりまして、お二方にお礼をしたくて来たのですがどうしたら良いでしょうか」

 普通であれば受付で適当な係を呼ばれて処理されるような事柄だ。
 しかしその時、たまたま彼が近くにいた。

「あれ~? チャンですよねえ?」

 ――が名指しした、鈴屋什造本人が。
 什造の登場に、は顔を輝かせた。


◆◆◆


 什造、彼の上司の篠原、そしては、揃ってロビーの椅子に腰を下ろした。
 すっかり調子の良さそうな彼女を見て、篠原は安堵の笑みを浮かべる。

「退院おめでとう、ちゃん」
「有難うございます、篠原さん」
「今日は眼鏡はないですか」
「はい、鈴屋さん。スペアも無く……。入院の際に借りていた眼鏡も返してしまったので」

 笑いながら二人の言葉に丁寧に答える。眼鏡が無いせいで、視線はやや的外れな場所へ向けられている。
 は、大きな包みをテーブルに置いた。その包みを篠原たちの方へゆっくり押しながら説明し始める。

「これは先日助けて頂いたお礼です。それと……鈴屋さんたちがいらっしゃるか判らなかったし、上手く喋る自信も無くて、お伝えしたいことや内容はこっちのお手紙に全部書いてきました」

 が両手で差し出した手紙を、什造が動作を真似て両手で受け取った。
 手紙には、丁寧な筆跡でこう綴られていた。

『こんにちは、またはこんばんは。鈴屋さん、篠原さん。
 先日は危ないところを助けて頂き有難うございました。
 まさかあの夜にぶつかってしまった相手が“喰種”だとは気付かず、近道をしようなどと怠けた自分の判断を悔やみました。
 このまま死んでしまうかと思ったそんな時、たまたま鈴屋さんが通りがかって“喰種”を倒してくださいました。鈴屋さんがいなかったら私はきっと“喰種”に殺されていたと思います。
 そして篠原さんの、まるでお父さんのようなお気遣いの数々に、事件で少なからずショックを受けていた私はとても癒されました。
 入院している間もお二人にお見舞いに来ていただき、寂しさが紛れ、助かりました。
 本当に有難うございました。
 せめてものお礼にと、マドレーヌを焼いてみました。喰種との戦いは、私のような一般人には想像もつかない激務だと思います。疲れた時には甘いものと言いますので、良かったら食べてください。一番大きな箱のがマドレーヌです。
 でも甘いものを食べているとしょっぱいものも欲しくなるかと思い、お煎餅も入れておきました。銀色の缶に入っているのがそれです。
 青い小さい缶は、私の好きなブレンドの珈琲です。飲みやすくて美味しいのですが、もしお気に召さなかったらすみません。
 その場合は、また日を改めて品も変えてお礼に参ります。
 助けて頂いて、本当に有難うございました。このご恩は生涯忘れません』

 その便箋を左手でひらひら揺らし、右手で早速マドレーヌを摘まみながら什造は笑う。

「やったですねぇ♪ 感謝されちゃいました、照れちゃいます~」

 それを見て、篠原が困ったように眉尻を下げた。

「照れちゃいます~じゃないよ什造……。女の子血塗れにしときながら」
「大丈夫ですよ篠原さん、あれ全部返り血でしたから」
「全然大丈夫じゃないよ……」
「でもホラ! チャン気にしてないです。だから良いじゃないですかー」

 什造から話を振られたが、頷きながら答える。

「はい、大丈夫です」
「なら良いんだけど……いや本当は良くないけど」

 ため息と共に、篠原は考え込んだ。
“喰種”との接触だけで十分衝撃的であったはずなのに、什造によって切り裂かれた“喰種”の血を浴びたり、挙句間近でその“喰種”の死体を見たはずのは、驚くほど冷静だった。最初は衝撃の余り呆然としていたのかと思ったが、それは違った。
 水溜まりの上を車が通り、そこから飛んできた泥を浴びた。まるでそんな調子の穏やかさで、血塗れのまま少女は笑った。

『命、なくさずにすみました。本当に有難うございます』

 そう言って、胸を撫で下ろしていた。
 それだけだった。
 ただただ、感謝を口にするだけ。
 他の捜査官ですら什造の行為は目を背けたくなるような場合が多いというのに。
 ……何度考えても不思議だ。

(ご両親を亡くしたことが、少なからず影響していそうだが……)

 普通ならもっと情緒不安定になりそうなものだが、本当には落ち着いている。落ち着きすぎていた。

「鈴屋さん、お菓子が好きみたいで良かったです」

 ご機嫌そうにマドレーヌを頬張る什造を見て、は嬉しそうに笑っていた。
 ――彼女には、恐怖という感情が欠けているのかもしれない。もしくは彼女も知らぬうちに抑え込んでしまっているのか。だとしたらそれは、彼女をいつか追い詰めてしまうのでは……。
 そんな篠原の葛藤など露知らず、隣に座る什造はマドレーヌを食べ終え、煎餅を齧っていた。

「あ。そーだ! 僕もチャンにお渡しするものがあるんでした~」

 煎餅をくわえたまま、什造は自分の鞄を漁り始める。……しばらくしてから什造が取り出したのは、眼鏡だった。一見すると普通の眼鏡だが、赤いフレームの腕部分に細かい装飾が付いている。

「怪我はさせなかったですけど、眼鏡ふんづけて壊しちゃったので~、ベンショーです」

 什造にしては珍しい。先日、現場での眼鏡を壊してしまったことを覚えていたようだ。そしてそのことを気にかけていたとは。
 思わぬところで部下の成長を感じ、篠原は嬉しくなった。
 そして什造の気遣いに、は赤くなって頭を下げる。

「あ、有難うございます。鈴屋さん」
「良いですよぉ~気にしなくて。さーさーはやく掛けてみてくださーい」
「あっ、はいっ」

 什造から眼鏡を受け取ろうとが手を伸ばすも、絶妙に的外れな空間を掠めるばかり。彼女の視力は什造たちの想像以上に悪かった。こんな状態で、よくぞ無事に支部まで来れたものだ。
 そんな彼女を流石の什造も見かねたらしい。眉尻を下げ、溜め息を吐いている。

「仕方ないですねえ~……エイッ!」
「わあっ!?」
「ジューゾー!!」

 什造はの頭を掴むと、強引に眼鏡を掛けさせた。彼なりの親切心なのだろうが、見ていた篠原は肝を冷やした。
 しかし……。

「……わあ、視界が開けましたー! 有難うございます、鈴屋さん!」

 は此処でもマイペースな反応を示した。篠原の心配は完全な杞憂に終わる。
 什造も何処と無くご機嫌そうにを見つめていた。

「どういたしましてです。あと、僕のことは什造で良いですよー」
「判りました、什造さん。あ、良かったら私のことも名前で呼んでください」
「じゃあ、チャンですねえ」
「はいっ!」

 瞬く間に什造とは親交を深め、互いを名前で呼び合うまでに至った。二人の独創的なペースに、篠原は置いてけぼりを食らっていた……。
 ようやく焦点があったその瞳で、改めて什造と篠原を見て、は頭を下げる。

「何から何まで本当に感謝です」

 深々と下げた頭をゆっくり上げると、彼女は、今日一番の笑顔をしてみせた。

「什造さん、篠原さん。本当に有難うございました!」

 そうして、新しい眼鏡を掛けたまま、は何度も二人に頭を下げながら支部を出ていった。眼鏡のお陰で、その足取りは支部に来た時よりずっと軽やかなものになっている。目線も安定していた。きっと無事に家まで帰ることが出来るだろう。

「あの~篠原サン」

 暢気にを見送っていた什造が、ふと篠原を振り返る。

「なに?」
「あの眼鏡の代金、経費で落ちますよねえ?」
「!!」

 色々言いたいことが有りすぎて、言葉に詰まる篠原であった。

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