突然の“喰種”の襲撃から、私を守ってくれた父の体。
肉が削げ、骨が砕け、それでも私を抱えて離さないで守ってくれた二つの腕。
最後に父の肩が抉られ、右腕がどしゃりとアスファルトの上に落ちた音。周りを染めるびちゃびちゃの血液。
全て覚えている。
幼心に判った。
あの“喰種”は私を、子供を狙っていた。父をなぶるように傷付けたのは、殺したのは、わざと。私を絶望させるため。
誰かが喰種捜査官を呼んでくれて“喰種”は駆逐された。
父は死んだ。
私は生きた。
父が亡くなってから、ひとりで私を育ててくれた母。
『辛い顔をしてたら見る方も辛くなるし、ずっと笑っていれば良いことがあるわ。諺にもあるでしょ?』それが母の口癖。
父も感化されていた、優しい言葉でいっぱいの母。
私が中学生の頃、ある日、自宅に帰ると血塗れで倒れていた母。
体のあちこちの肉が切られたり千切られたりして、沢山の血がフローリングに広がっていた。
その頃問題になっていた“喰種”を模倣する犯罪集団の仕業だった。全員捕まった。
母は死んだ。
私は生きた。
親戚に引き取られてからも何となく居心地が悪かった。お互いどう触れたらいいのか判らなくて、ぎこちない感じ。
高校は奨学金制度を頼った。親戚へなるべく迷惑を掛けたくなかった。それでも親戚は、幸いにも私の気持ちを汲み取ってくれて。優しくて協力的で。この頃には少しずつ親戚との距離が縮まっていた。
高校を卒業してから二年間死に物狂いで働いた。奨学金も返さなくてはならなかったし、何よりじっとしていたくなかった。親戚に何度もお礼をして、私は二十歳で上京した。
父と母が生きて、死んだ場所に戻った。
それから二度“喰種”に襲われた。
けれど私は生きていた。
生きていることは幸せ。笑った。
父が死んだときも、母が死んだときも、笑って見送った。周りは気味悪がったけど、覚えていることを覚えていて欲しかったから。
笑ってないと周りも辛いのだと教わったから。
笑う。私は、笑う。
忘れないで、わたし。
父と母のこと、父と母の言葉、父と母の全てを。
だから、笑う。
――父と母のことは、よく夢に見る。懐かしさが込み上げて、他にも一緒に沸き上がる沢山のものを纏めて蓋をして、鏡を見る。
笑顔をつくって、練習して、頭を起こす。
そうして私は支度をして家を出た。
入院している間に、私は職場をクビにされていた。そういう方向で話が進んでいた。
何回も“喰種”に襲われる人間をそばに置きたくない……。誰だってそう思うだろう。
適当な菓子折りを買い、職場に返却するためにクリーニングに出しておいた制服をクリーニング屋で受け取って、ようやく職場を目指す。
次の仕事を探さなくては。親戚への仕送りも、奨学金の返済もある。早く何とかしなくちゃ。
考えただけで溜め息が漏れた。
「チャン、お顔が暗いですよお~?」
「えっ!?」
ハッとして顔をあげる。何故か目の前に什造さんがいた。ニコニコと笑いながら、私を見上げている。
「こんにちはです。つい声掛けちゃいましたあ」
「あ、有難うございます。什造さんはお仕事ですか?」
「そんな感じですー。チャンもお仕事ですか?」
純粋な什造さんの質問に、すぐには答えられなかった。それでも瞬きをしながら返事を待つ彼を見て、私は決心し、ゆっくり口を開く。
「実は、仕事をクビになって……制服を返しに行くところなんです」
「何でです? チャン、悪いことしたですか?」
什造さんは目を丸めてそう返してきた。
胸の奥がちくりと痛む。
――私は何も悪いことをしていない。そのつもり。本屋の仕事は楽しかったし、職場の人も親切だった。私は一人暮らしだから、シフトの交代や残業も進んで引き受けた。サボったことも無かった。よく来るお客さんは私を覚えてくれて、話しかけてくれたりもした。
それが全部……あの夜で崩れてしまった。
「何度も“喰種”に襲われるような奴が同じ職場にいたら、巻き込まれかねないって普通は思いますから。仕方ないです」
精一杯に笑ったつもりだったけれど、上手く顔の筋肉が動かない。きっと今の私の顔は、情けない苦笑いになっている。
そんな私に、什造さんは真ん丸に見開いていた目をフッと細めて、笑ってみせた。
「僕もついていって良いですか?」
「え?」
「チャンのお仕事してた本屋さん、見てみたいです」
笑みを絶やさずに什造さんは言う。
私は……おずおずと頷いた。
什造さんの距離感の無さに戸惑いもあった。けれど心のどこかから嬉しさが込み上げてきて、戸惑いをくるんでいってしまう。
こんな風に私に気兼ねせずに話しかけてくれる人なんて、家族以来――。
「その袋は何ですか?」
「職場の制服と、買ったお菓子です」
「わざわざお菓子買うですか、チャン。あんなにお菓子作るの上手なのに? この間のマドレーヌすごく美味しかったですよ」
「有難うございます……。前はよく作ったものを差し入れに持っていって、皆喜んでくれましたけど……今の私の作ったものなんて、気味悪くて食べたがらないかと思って」
「そうですかねー」
会話をしながら、鼻唄混じりの什造さんと共に歩道を歩き続けること10分と少し。本屋に着いた。
「ここがチャンの仕事場ですかー」
「元、ですけどね……」
改めて解雇されたことが肩に重くのし掛かって来る。気が重い。
(制服を返して、菓子折り渡して「お世話になりました」って言って。後は……辞める前まで出勤してたぶんの給料のことや書類やら、色々聞かなくちゃなあ……)
やることを頭のなかで今一度整理してから、本屋へと入った。
事務室に向かうと、ちょうど店長がいた。デスクに座ってコーヒーを飲む店長は、すぐに私たちに気付いた。
「あー……さん」
「お疲れさまです。制服返しに来ました」
「そっか」
「あと、お世話になったお礼にお菓子買ってきたので……皆さんで食べてください」
「わざわざ、それはどうも」
少し店長もぎこちなくって、私は酷く居心地が悪かった。
「ご迷惑おかけしました。あと、お世話になりました」
「うん、こちらこそ。……後から離職票とか詳しいこと、そっちに届くと思うから」
業務報告のように無機質な店長の言葉に、はい、はい、と短く何度も頷き返す。
その間、什造さんはじっと店長を凝視していた。流石にその視線に耐えかねたのか、店長は話を切り上げて什造さんを見た。
「そっちの子は……知り合い?」
「えっと……」
「チャンのトモダチの鈴屋什造です、よろしくお願いします」
何故か私の言葉を遮るように什造さんは言った。何となく、違和感がする。けれど本当に遮ったのか判らないし、だとしたら理由は何なのか。どれも確かめる勇気はない。
「チャンがお世話になりました。でもこーいう仕打ちは理不尽だと思いますよお」
笑いながら、什造さんが言う。
「誰も“喰種”に襲われたくはないでしょうし、チャン何も悪くないです」
私の気持ちを全て見透かしたような、そんな什造さんの言葉に、私は救われた。
押し黙る店長を他所に「それじゃサヨナラです~」と什造さんが踵を返す。何故か私の手を引きながら。
その細い手のひらの温もりにも、私はたまらない幸福を覚えた。
こんな時にまで、什造さんは私を守ってくれた――……。思わず目頭が熱くなる。
「什造さんが一緒に来てくれて良かったです」
本屋を出てから、私は言った。
「本当に有難うございます、什造さん。助かりました」
「いえいえー。僕があーいうの嫌いなだけですからお礼には及びませんです」
ゆっくり手をほどきながら什造さんが答える。よく判らなかったけれど、庇ってもらったことに代わりはない。什造さんにそのつもりが無かったとしても、だ。
「あの、これからお昼ご飯でもどうですか? せめてものお礼に、奢らせてください」
気が付いたら私はそう口走っていた。そして什造さんも、「それは嬉しいです~!」と諸手をあげて喜んでいた。
無難に近くのファミレスに入って、少し遅めの昼食を二人で楽しんだ。
「デザート頼んでいいですか?」
「ふふ、どうぞ気にせずいっぱい食べてください。お礼ですから」
「じゃあ遠慮なく頂きまぁす」
小柄な外見とは裏腹に、食欲旺盛な什造さんの姿に少なからず面食らった。けれど、ご機嫌そうにご飯を頬張る什造さんを見ていると、すごく嬉しくなってくる。
誰かと一緒にご飯を食べるなんて、すごく久しぶりだ……。
「ふぃ~、お腹いっぱいです……。眠たくなってきました……」
「気持ちは判りますけど、ファミレスで寝るのは……」
「お腹休めがてら少しだけ寝ますー。ちょっとしたら起こしてくださいー……」
止める間もなく什造さんは瞼を閉じた。程なくしてすやすやと心地よさそうな寝息が聞こえ始める。本当に寝てしまった……。
「ちょっとってどのぐらいかな……」
什造さんの口回りについた食べカスをそっと拭き取ってから、私は追加でドリンクを注文した。何もせずにいるよりは、何か注文した方がマシな気がしたから。
――のんびりドリンクを飲みながら什造さんの寝顔を眺めているうちに、あっという間に時間が経っていた。
「什造さん、そろそろ出ましょう」
「ふぁーい……」
すんなりと起きたものの、まだ寝ぼけ眼の什造さん。まだ寝足りない様子だ。
手早く会計を済ませると、私は彼の手を引いて店を出た。
「大丈夫ですか、什造さん」
「まだちょっと眠いですけど、平気ですー」
ふやけた什造さんの笑みに、私もつい笑い返していた。
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