ランニングから始まり、自宅での筋力トレーニング、そして栄養バランスのとれた食事。
 は、捜査官“補佐”という肩書に相応しい実力を身につけようと必死だった。
 自分がどうして局員補佐ではなく捜査官補佐として雇われたのか。理由は全く判らない。篠原と什造に訊ねても詳細は知らされないままで、まるで彼等よりもっと次元の違う人物が、の処遇について采配したかのようだった。何にせよ仕事を得たこと、今も生きていることは、篠原と什造のお陰に違いない。
 事務ももちろんやりがいはあったし、職場の先輩方も優しい。普通の職員として見てもらえるのだ。今までは何処に行っても腫れもの扱いだったにとって、それが何よりの歓びだった。
 しかし欲を言えば――自身も戦線に立ちたい。
 だが今からアカデミーに入学と言うわけにもいかなかったし、収入が無くては生活が成り立たなかった。だからこうして自主的かつ独学で学ぶしかなかった。

「――どうですか、什造さん」
「おいしーです!」

 の作った夕食を頬張り、什造は満面の笑みで答えた。
 それを見たも顔を綻ばせる。
 今日は久々に什造が直接戦術を指導してくれることになり、その前に腹ごしらえをと家へ招いたのである。ごくごく自然に自宅へ異性を招いてしまったが、ちゃんと事情があるのだからと自身に言い聞かせながら、は出来得る限り平静を努めた。
 あっという間に夕食を平らげた什造は、まるで我が家のようなリラックスぶりでカーペットの上へ寝転がる。

「あー、満腹です、幸せですねぇ、ご飯おいしいって」
「良かった、いつもお世話になってますから、少しでもお礼になってたらいいんですけど」

 てきぱきと食器を片付け始めるに、うーん、と小さく唸りながら什造は溢す。

チャン、そんなカシこまらなくっていいんですよ?」
「尊敬している方に対しては当然の態度だと思います。と言いますか、人生今までこういう調子で過ごしてきたもので……」
「ちっちゃな頃から律儀なカンジだったわけですか。じゃあ、慣れるまでそれで良いです」

 ごろん、ごろん、と什造はカーペットの上を転がり、近くにあったクッションを抱えた。
 はそんな様子を少しばかり眺めてから、また片付けを再開する。
 片付けが終わった頃にはお互いすっかり腹もこなれていた。

「よし、練習しに行きましょうか」
「はい」

 什造の声を合図に、二人はアパートを出た。
 るんるんと鼻歌まじりに歩く什造の後を追いかけて夜道を進み、時にフェンスを上り、またある時には壁を越え、そのまたある時には他所の家の敷地を横切っていく。……そうして二人は“練習場”に辿り着いた。
 外壁がツタだらけの、古びた屋敷。何でも建てたは良いもののいざ住んでみると床が傾いでいたり耐震偽装問題が発覚したりと、結局無人になったそうだ。挙句「お化けが出る」だのと噂が立ち、特に夜は人っ子ひとり寄り付きはしない。解体も手間なのかそのまま野晒しになった屋敷を見上げると、何とも言えない哀愁が胸にこみ上げる。
 什造は構うことなく屋敷の中へと進んでいく。慌てても後に続いた。

「光くださーい」
「はいっ」

 が鞄からキャンプ用のLEDランタンを引っ張り出す。それを受け取った什造は、ランタンの光で照らしながら更に奥へ進む。彼はもう少し歩いて突き当たった扉――蝶番が外れかけている――を開いた。
 そこは恐らくリビングであろう部屋。真っ白だったであろう壁紙はボロボロである。フローリングの床は明るい時に何度かが掃除しに来ているお陰で大分綺麗な方だ。
 ランタンを床に置いた什造は、ジャケットを捲ってナイフ状のクインケ・サソリを取り出した。

「今日はチャンにもクインケ練習してもらおうと思って、多めに用意してきました」

 にっこり笑う彼の手にあるサソリは4本。確かにいつもより多かった。

「二本貸したげるので、これで練習してくださいねぇ」
「い、いいんですか?」
「バレなきゃヘーキです。だからナイショですよ」
「わかりました……な、内緒ですね」

 ぽんっと渡され、初めて触ったクインケ。見た目より重く感じるのは、実際にそうなのか心境のせいなのか判別がつかない。しかし、またとない絶好の機会である。ぎゅっとサソリを一本ずつ握り締めて、は唇を引き結んだ。
 それを見た什造が、早速駄目出しをする。

「あんまりギチッと緊張してると逆によくありませんから、もう少し力抜くです」
「で、ですが……」
「刺さる前に僕がカバーしたげるので心配いりません」

 ――それなら安心だ。
 の動揺と緊張は瞬く間に消える。普通だったらそう安易には消せない恐怖がこれっぽっちも無くなった。
 ――什造さんの言葉が、私の中の勇気を奮い立たせてくれる。
 どんどん気持ちが楽になっていった。包丁で怪我をした時のことを思い出す。万が一サソリの扱いに失敗しても、それの延長線上だ。ちょっとばかり切れて痛い思いをするかもしれないが、寧ろそうやって覚えた方が早いのではないだろうか。
 什造の指導に、は熱心についていった。
 動きながら刃物を扱うというのは些か彼女には早かったようで、幾度となく什造の手助けを受け、大事に至らずに済んだ。それでもは挫けず、指先が切れ、血が伝うのも構わず練習を続ける。

「そこでクルッと、ああ、そっちじゃなくて逆ですよ。……おー、良い感じです!」
「や、やった……!」

 たまに上手くいくと、什造は両手を叩いて褒めてくれた。それが尚更の励みとなった。
 教える側の什造も、教わる側のも、二人は至って平常だ。
 しかし、廃屋の薄暗い部屋の中で行われる練習は……怪我も構わずに体を酷使する彼女とそれを見て笑う彼の姿は、恐らく常人が見れば、これこそ“お化けだ”と血相を変えて逃げ出すような異質さを宿していた。
 異常な平常に慣れきったふたりを止める者が此処に来るはずもない。
 二人は暇さえあれば特訓を続けた。
 だがこの廃屋での秘密特訓も、ある夜、突如として終わりを告げることになる。

「――ちゃん、しゃがむ!」
「はいっ!」

 什造との存在に気付いた“喰種”が、廃屋の壁を突き破って襲ってきたのだ。
 いち早く気配を察した什造の号令のお陰で、は怪我をせずに済んだ。真上を“喰種”が滑空していくのはなかなかに新鮮な光景だった。同時に黒い水がの顔へかかったが、それが“喰種”の血であることは、耳をつんざくような悲鳴が教えてくれた。
 ランタンは風圧で吹き飛んで部屋の隅へ転がっていったが、壊れてはいない。心底電池式で良かったと思う。あれが唯一の光だ、失うわけにはいかない。
 その光を頼りに什造は、血塗れたサソリを構えたまま、逃げる“喰種”を追う。うっすら笑みを浮かべた横顔が、転がって不規則になったランタンの輝きに照らし出される様には見惚れてしまった。“喰種”に向かう彼の姿に、胸が高鳴った。だがすぐにハッと我に返り、ランタンを手に什造たちの後を追った。
 廃屋の外では、赤黒い赫子を尻尾のように蠢かせる“喰種”と什造が対峙していた。
 ランタンを持つの無防備さに、“喰種”はすぐさま標的を変える。「まさか“白鳩”二匹とは思いやしなかったよ!」突っ立ったままの目掛けて、異常な瞬発力で迫ってきた。
 ――これはまずい気がする。
 の肌が粟立った瞬間、

チャン! さっきの!」

 什造の叫びが、遠のきかけた彼女の意識を引き戻す。反射的には、ランタンを“喰種”の顔面に投げつけた。見事命中したが、今度こそ確実にランタンが壊れてしまう。視界は一転して真っ暗闇。それでも相手が一瞬動きを止めたことをは肌で感じていた。
 ごめんなさい、と口を動かして、什造から借りているサソリを振るう。“喰種”の足元を掬うように、腱を断ち切った。「ぎゃああっ!!」相手の悲鳴で耳が痛くなりそうだ。初めて“喰種”に反撃した手応え諸々を実感する暇は当然なく、無理矢理急に姿勢を低くして突っ込んだ勢いで頭からごろごろと地面を転がっていく。それでも転がる方向は間違えなかったようで、見事に什造の元へとやって来ることに成功した。

「ぶっつけ大丈夫でしたねぇ、チャン」
「な、なんとか……」

 奇跡的に無事だった眼鏡の位置を直しながら、は什造に返す。足をやられた“喰種”はまだ起き上がれそうにない。この間に〔CCG〕へ連絡を入れるべきだろう。動揺しながらも彼女は携帯電話を取り出した。相手は二人が喰種捜査官だと思っているようだし――が捜査官ではないと説明したところで無意味だろう――、追い込まれて何をしでかすか判らない。

「も、もう通報しますね! こんな状況ですし!」
「秘密基地がオシャカです……。ちょっぴり残念ですね~」

 言いながら什造は、“喰種”へ切りかかる。肉を切る音と断末魔、様々な音が夜闇に反響していく。
 ――の通報で喰種捜査官が駆けつけた頃には、駆逐は終了していた。
 彼らが見たのは、草むらに座り込む、そして、

「あーあ、アナタのせいで折角の秘密が無くなっちゃいましたよお。楽しかったのにぃ」

 バラバラに切断した“喰種”の顔面にサソリを何度も突き立てて愚痴る什造の姿だった。
 ……什造との秘密特訓はこうして終わりを告げた。おまけには、特訓のせいか“喰種”の襲撃のせいか判別がつかない様々な怪我を負っており、強制的に入院させられる羽目になった。
 勿論あの廃屋での特訓も今後は一切禁止と篠原から言い渡され、はすっかり意気消沈していた。
 そんなを見舞いに来ていた什造はというと……一切変わりなく、いつも通り。

「サソリ増やせただけでも収穫はありました~。チャンもレベルアップしたです。今度は明るい別の場所で練習すればいいだけですよ」
「はい……」

 いつもなら気合を入れたいところだが、流石にの返事に元気が無い。
 今更になって“喰種”に挑んだあの時の光景が、脳裏を鮮明に駆け巡る。真っ暗闇のなかで爛々と輝き此方を捉えた赤い双眸。狙いを定めようとゆらゆら動いていた赫子。そしてそんな“喰種”の足元を掬った時の手応え――……。
 思った以上にすんなり切れた。それが印象的だった。
 いつも教わっていた通り、しっかりと腱を寸断できた。それは嬉しかった。
 什造も、見舞いに来るたびにの行動を褒めてくれた。
 此方の命を狙ってきた今は亡き“喰種”に対し、が抱いた感情は……、

「……もっと、もっと上手くなりたいから、今後ともよろしくお願いいたします。什造さん」

 一切の濁りの無い、感謝の念。自身の努力が少しは実りつつあると実感させてくれ、什造から有難い言葉を掛けてもらうに至った“喰種”の襲撃に、はただただ、感謝していた。あの襲撃が無ければきっと怪我にも気付かなかったし、取り返しのつく段階で病院へ来れたのもまた、あの“喰種”のお陰なのだ。

「こちらこそ、よろしくです~」

 の申し出と笑みに、什造も嬉しそうにお辞儀しながら返してみせる。
 ……命を狙われたという現実に勝る数々の喜び。これもまた現実には違いなく、不思議と恐怖はない。少なくとも今では全く。
 ベッドの上でウサギの形に剥いたリンゴを皿に並べて、は微笑む。
 ――心臓に悪い出来事も、何だかんだで全ては自分の為になっているのかもしれない。
 そうでなかったら、こうして彼に会うことも無かった。
 彼に会うために、今までの出来事があったのだと思えば、少しは胸が軽くなる気がした。

「ウサギさん食べていいですか?」
「そのために剥いたんですよ、どうぞ」
「えっへっへ、ありがとーございます」

 ぱくぱくとリンゴを頬張る什造の無垢な姿に、の胸は温かくなった。
 気儘な什造といることは、全てにおいて受動的な彼女にとって大きな刺激であり、楽しみだ。
 はあまり物事を深く考えない。執着しない。しかし、今の彼女は、什造と共に過ごすことにだけは異常な拘りを抱き始めていた。
 ――こんなにも一緒にいたい誰かといられたのは、いつぶりだろう?
 この気持ちが一体何なのか、はまだ知らない。明確な言葉にしようとしたり、答えを突き止めるには、勇気も足りなかった。
 全てを笑顔の下に押し込めて、次のリンゴを剥き始める。

「什造さんは本当によく食べますね」
チャンが食べなさすぎなだけですよぉ、ほら、リンゴ食べるです」
「はい、これ剥いたら私も食べますから」

 果物ナイフを握り直しながらは、ああ、やはりクインケは重かったのだと、痛感していた。

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